出会ってから数週間。 子供という生き物の恐ろしさを、身をもって実感している。 奴の息子だから、という事も多少なりともあるのだろうが。 ・・・正直、扱いに困る。 ワガママ。 「どうした。眠れんのか。」 「べっつに。オジサンこそ。」 真夜中。 まるで示し合わせたかのように同時にキッチンへと来てしまい、内心驚く。 浅瀬と深瀬を漂う睡眠の中、喉の渇きで覚醒してしまったアーロンのくぐもった声と違い、はっきりと透った声のティーダ。 恐らく今まで一睡もしていないのだろう。 しかしその事には敢えて触れず、電気も付けずに、無言のまま2人して奥へと進んだ。 「ミルクでいいか?」 返事を待たずに、冷蔵庫からボトルを取り出す。ティーダはアーロンに視線を向けずに頷き、ダイニングの椅子に腰掛けた。 それを横目に確認しながら、よく冷えたミルクをグラスに半分まで注ぎ、無言で待つティーダの前に差し出してやった。 ティーダは謝礼の言葉もなくグラスを口へ運ぶ。一口飲むと、そこで初めてアーロンに視線を向け、ようやく重い口を開いた。 「いつまでここにいるの?」 一瞬ムッとした。母を失って数週間。荒れ果てた彼をずっと傍で見守り続けた人間に対して、それが言うべき言葉だろうか。 いや、別に恩を売るつもりで傍に居たわけではないが。 「なんだ、出て行って欲しいのか。」 敢えて冷静に答えてやる。どんな返答をしようと、素直に聞き入れてやるつもりはないが。 途端、ティーダは焦りの表情をみせ、取り繕うように言葉を続けた。 「や、別に。・・・居てもいいよ。どうせもう他に誰もいないし。」 そう言うと、項垂れる様に、またアーロンから視線を外した。どうやら純粋に滞在期間を聞かれたらしい。返って済まない事をした。ティーダに余計な記憶を呼び起こしてしまった。少しでも、頭から離れて欲しい現実。 「そうか。なら居させて貰おう。他に宿もないしな。」 意識をそこから離すように。ティーダの気が済むように。 極力優しく答えてやる。子供相手に気を使うとは、俺もヤキが回ったものだ。 その言葉に反応するように、俯いていた子供は、弾かれたように顔を上げた。 出会ってから数週間。虚勢を張るように、自分に反発し続けていた子供。 しかし彼はまだ幼いのだ。ずっと寂しかったのだろう。ひた隠していたつもりなのだろうが、見え見えだった。 窓から差し込む僅かな光に照らされて、輪郭を映し出したティーダの顔。 心なしか、明るく映ったのは、決して月明かりの所為だけではあるまい。 その表情に安堵を覚え、自分用に注いだグラスの水を、飲み干そうとした瞬間。 「いい歳して、タダ飯食い。」 思わず口に含んだ水を噴き出すところだった。 鈍く咽るアーロンを余所に、それだけ言い残すとティーダは満足げに寝室へと帰っていった。 ・・・一体俺にどうしろというのだ、コイツは・・・。 「ただいまー!アーロン!おやつー!」 掃除の最中、ドタドタと騒々しい足音と共にこの家の暴君が帰宅した。 「まず、手を洗わんか。」 「さっきプールで洗った。もー腹ペコなんだって!おやつは?今日は何?」 溜め息が漏れる。そういうのは洗ったとは言わんのだ。 こいつには俺の話は通用しないのか。それともこの世界はそういう常識なのだろうか。 しかし何を言っても聞かないと学習したアーロンは、渋々聞き流す事にする。 「・・・アイスでも食っていろ。昨日買った分が残っているだろう。」 「えー?オレ今日はさくらんぼゼリーがよかったのに!」 「そんなものは無い。」 みるみるふて腐れた表情に変わっていくティーダを尻目に、アーロンはリビングにクリーナーをかけ続ける。 また「タダ飯食い」などと言われては敵わないからだ。彼は律儀な性格だった。 不穏な空気を流しつつ、いつまでも無言で自分を見つめ続けているティーダの視線を背中で感じながら、 アーロンは素知らぬ顔で掃除を続けた。正直不気味だった。 「・・・作ってよ。アーロン。」 やっと小声で口を出たのは、無理難題。この歳の子供はみんなそうなのだろうが、何せ自分には経験がないのだ。 素直に聞いてやるのが正解なのか、否か。 「・・・そうは言っても材料が・・・。」 考えあぐねた結果、ここは冷静に対処しようと振り向いた途端、固まった。 ティーダは目に涙を溜めて、いじらしく此方を見つめている。 その視線といったら、身長差のため見上げられた形となり、まるで捨てられた仔犬に縋られているようなものだ。 ・・・頼むからそんな目で俺をみるな。 ───泣くも、我儘を言うも、全て子供の特権なのだろうか・・・。 諦めてアーロンは溜め息混じりに返事をする。 「・・・分かった。材料を買ってくるから、手を洗って待っていろ。」 「うわーい!アーロン大好きー!分かった、待ってるね!」 ・・・手の懸かる子ほど可愛いというが。一体誰が初めにそんな事を思ったのだろうか。 先刻の涙はなかった事にするかの如く、すっかり表情を変えたティーダは、手荷物を抱えると嬉々揚々と自室へと戻っていった。 アーロンは仕方なくクリーナーの電源を切り、買い物へと出かける準備を始めた。これから先の事を考えると少し不安になる気持ちを打ち消しながら、玄関の扉を重々しく開いた。 小一時間後、材料を買い揃えて帰ってきたアーロンを待っていたのは、 枕元にアイスの包みを散らかし、ベッドですっかり熟睡したティーダの寝顔だった。 ・・・泣くも、我儘を言うも、全て子供の特権・・・・・・。 どんなに悪態をつこうと、我儘を言おうと、誰かに傍に居て甘えさせて欲しかったというのが、どうやらアイツの本心だったようで。 あの夜の会話がきっかけかどうかは定かでないが、あれ以来ティーダはアーロンに懐くようになっていた。 初めて体験する、「甘えられる」という行為に、アーロンは困惑を隠せなかった。どう対処して良いものか分かりかねていた。 そしてここ数日。アーロンの困惑は頂点を極めつつあった。 「かあさんは、作ってくれたよ?イチゴのミルクレープ。」 今日もティーダの我儘は健在だった。というか、ここ数日で酷くなっている気がした。 何かと、母親を引き合いに出すようになった。 デザートに注文をつけるのは以前から変わらなかったが、そんな名前すら聞いたことのない様な注文をつけられても、対処のしようがなかった。殊更、母親の名を出されたとあっては、アーロンも他に答えようがないのだ。無理だ、と言う以外。 「そうは言うが、それが一体何なのか俺には分からん。」 そう言うと、彼は泣き出しそうな顔をするのだ。どうして母親には出来て、自分には出来ないのかと責めるのだ。 これ以上の無理な注文は無かった。自分は、彼の親にはなれないのだから。 「もういいよ。オレ、もう寝るから。」 諦めたように言い捨てると、ティーダはリビングを逃げるように出て行った。 一人残されたアーロンは、深い溜め息をつく。 ・・・彼自身が理解するのを、アーロンは待つしか無かった。 日が暮れても、ティーダが自室から出てくることは無かった。一応、彼の部屋の前で扉越しに夕食は要らないのか問いかけてみた。部屋の中からは、暗い声で要らないとだけ返って来た。それ以上返事が聞こえる事はなかった。2人分作られた夕食は、半分無駄になってしまった。 深夜。 アーロンは彼を多少心配には思ったが、睡魔には勝てず、浅い眠りについていた。 夢の中で、子供の小さな泣き声が聞こえた気がした。夢だと思った。出来るなら、このまま深い眠りに沈みたい。 しかし、夢でないと気付くのに時間は掛からなかった。 「オイ。開けるぞ。」 アーロンはティーダの部屋の前に来ていた。一度気付いてしまった以上、無視するわけにはいかなかった。 彼の返事は期待できないと分かっていたので、ノックもなしに扉を開ける。 ティーダは、ベッドの上で、身を小さくして泣いていた。 「腹が減っているから、眠れないんだ。ホラ。」 手にしていた即席のサンドイッチを枕元に置いてやると、ティーダの隣りに腰掛けた。ベッドのスプリングが鈍く沈む音と共に、ティーダが顔を上げた。頬を涙が濡らしていた。こんな彼を見るのは久々だった。ティーダはしゃくり上げながら、たどたどしく、言った。 「かあさんに・・・会いたいよぉ・・・。」 それは、これまで決して彼が口にしようとしなかった、禁句だった。 口にしても、決して叶う事のない希望。相手がアーロンであれ、誰であれ。 切なくなった。小さな子供が、じっと一人で耐えている。叶う事のない思いを抱え込んだまま。 どうしたらいいのか、困惑していた自分が。 子供の我儘には、付き合いきれないと思っていた自分が。 「一緒に居てやる。」 自然と、言葉にしていた。 「お前の親にはなれんが、傍に居てやる。だからもう泣くな。」 言いながら、優しくティーダの髪を撫ぜてやる。それが慰めになるのか、まだ分からないが。 「・・・ホント?ウソじゃない?」 少し、涙が止まった様に見えた。ああ、と短く答えると、ティーダは表情を緩め、体ごとアーロンに擦り寄った。 大きな懐にすっぽり収まると、小さな腕をアーロンの腰に廻した。彼の顔は自分の胸に埋められて、表情を見る事は出来ないが、恐らく安堵に満ちている事だろう。アーロンはティーダの頭をなで続けた。小さく、ずっとだよ、と聞こえた。やがてそれは、寝息へと変わっていった。 またしても無駄になってしまった自分の料理。 しかし今度は、気にならなかった。 乾いたパンが、パタリと音を立てて皿の上で倒れるまで、アーロンはティーダの傍にいた。 翌朝。 いつにも増して元気なティーダが、珍しくキッチンで朝食の用意をしていた。 明け方近くまでティーダを抱えて起きていたアーロンは、重い瞼を必死で持ち上げながらダイニングへと入ってきた。 「何だお前、料理できたのか?」 「あ、オハヨ!アーロン!昨日の約束だけど、守ってね。今日のお昼に。」 起き抜けに一体何なのだ。しかも今の質問の答えになっていない。それとも自分の脳がまだ回転していないだけなのだろうか。状況から取り残されている。 「何のことだ。」 小さな子供は、その見かけに反して器用に朝食を完成させていく。 ひょっとしたら自分より上手いのではと、次々並べられていく皿を凝視していた。 この子供、出来るくせに今まで隠していたのかどうなのか、一度たりとて手伝うなど無かったが。 いや、それよりも。テーブルを埋めていく料理の数が、異常に多い気がするのは、気の所為だろうか。 「だから!一緒に居てくれるんでしょ?今日!」 「だから一体何の事なんだ。」 確かにそうは言った。だが「今日」が何を指しているのか見当がつかない。昨日の2人の遣り取りの中で、そんな事があっただろうか。まだ眠った状態の頭を回転させようと試みる。そんなアーロンを他所に、ティーダはテーブルに並べた料理を綺麗にランチボックスに詰め込みながら、嬉しそうに話し始めた。 「今日ね、グループデートなんだよ。みんな母さんがついて来るんだ。アーロン、オレのかあさんの代わりね。約束なんだからね。守ってよね。」 アーロンはその言葉に、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じずには居られなかった。 昨夜自分が彼に交わした約束は、そういう意味ではなかったのだが。 鈍器で殴られるような頭痛が襲い始めた。 「オレは別に女の子にキョウミないんだけどね、友達がさー・・・」 寝不足の頭を、新たな頭痛によって追い討ちをかけられているアーロンの隣で、 別に聞き手が居なくても構わない風で喋り続けるティーダだった。 子供というものは、思った以上に簡単な作りをしているのかも知れない。 大人が複雑に成長しすぎて、遠い昔の自分を忘れてしまっているだけで。 兎にも角にも、出会ってから数週間。 子供という生き物に、脅威を覚えつつ、その恐ろしさを、身を持って実感している。 あの、悪友の、息子だから、というのもあるのだろうが。 扱いには、ほとほと困り果てる。 ジェクト、今なら、お前の僅かな苦悩が分かる気がする。 再度、アイツに会った時は、労いの言葉でも掛けてやろう。 そしてグループデートと称された、海への小バカンスで、 いつもの涙目によって水着着用を強要されたアーロンは、一層その思いを強くするのだった。 |